石叫■          「カトリックの奇跡」

ラフ新報の七月一日付けのコラムに「バチカン奇跡の証明」という記事が載った。
同じクリスチャンでも戸惑いを感じる。奇跡の証明がその一つだ。

世界各地のカトリック教徒の間には、さまざまな「奇跡」が伝わっている。
聖書の中にではなく、「病気を治した」など、地元に伝わる「現代の奇跡」だ。
信徒に「本当?」と問えば「バチカンのお墨付き」と答える。ではバチカンではどうやって真偽を見極めるのか。
「聖母の人形が輝き、重い病を治した」。そんな話が伝わる中南米やアフリカの聖地では、必ず「バチカンの専門家が来て認定した」
と聞かされた。専門家とはバチカン(ローマ法王庁)の列聖省のことだ。

過去十年間、長官を務めてきたサライバ枢機卿は
「奇跡の検証は仕事の基本です。バチカンには累計二二〇〇を超す報告があり、過去二十年間で四百件に結論が下されたという。
「一つの調査に平均五年かかり、結論に至るのは年二十件ほどです」。
そのようにしてそれらが奇跡かどうかを見極めるという。しかし、宗教の話である。暗示や錯覚が多いのではないか。

「問題はそこなんです。バチカンの外で信徒でない医師ら二十人ほどの科学者に厳正な審査を頼みます」。
重病の治療を「奇跡」とみなす手順は、まず現象が@素早さA完全さB効果の長さ……のすべてを満たさなくてはならない。
つまり「病が治っても、二、三年で戻ってしまうのは奇跡とはみなされない」。

次に「医学的に説明のしようがない」かどうかを判断する。その責任者であるピカルディ教授は語る。
「検証には精神、内・外科ら大体五人の医師がかかわる。患者の自己暗示力が治癒力を高める例もあり、病理学的に細かく見てゆく。
『科学的に証明しようがない』との結論に至ったものだけが残される」。

その後、神学者が事例の「神学的意味」を探る。「治った人が改心し、その後の人生で善行を働いたといったことが重んじられる」。
では彼ら自身は説明不能の現象を体験したことがあるのか。
「私はないし、常に冷たい目で見ている」と枢機卿。

最後にピカルディ教授は、「多くの奇跡を見てきたが、その真偽は不明だが、分からない現象が常にある」。

 だが迷うなかれ。たとえ聖母の人形が輝いても、それ自体が救いになるのでも、礼拝の対象になるのでもない。
私たちの信仰は奇跡や現象を「見て」信じるのではないからである。

主イエスはむしろ「見ないでに信ずる者は幸いである」(ヨハネ二〇章)と宣言されたように、
私たちはあくまでも「主イエスの十字架による罪の赦しと救いを信じる信仰」によって生かされるのだから。