石叫■         「ネヘミヤの宗教改革」
ネヘミヤはエルサレムの城壁再建のリーダーとして多くの困難を通った人物であるが、
そこに一貫した信仰の原点である祈り深い生活を伺い知るこ
とが出来る。

そもそもこの書は、祈りに始まり、祈りで終わっている。
彼は城壁再建の目的のために捕囚先のペルシャの王、
アルタシャスタから
派遣され、結果的には十二年間ユダの地にとどまっている。
でも任期が終わ
ってペルシャに帰るためにしばらくエルサレムを離れていたが、その間、恐るべき反動が
彼の地に起こっていたのである。それらは雑婚であり、敵との
結託であり、レビたちに支払うべきものは何も
支払われていないという経済
的問題であり、安息日が厳守されていないという致命的欠陥であった。
ネヘミヤの監督のもと、ユダヤの人々は城壁を完成させ、エズラの霊的指導によって神の律法を守り、主に喜ばれる
生活を送っていたはずであった。
でも、それがいつのまにか緊張感が解けて、もとのもくあみに戻ってしまっていた。
かつての真実な悔い改めと、神への賛美は一体どこに行ってしまっ
たのだろうかと思うのだが、ネヘミヤというリーダーが
不在の間に、人々は
すっかり変わってしまっていたのである。

しかし、改革というのは、一夜に
して成るものではないのかも知れない。根気良く、かつ妥協することのない、永続的な
取り組みによって完成してゆくものなのであろう。
そこでネヘミヤは激高のあまり、数人を撃って、彼らのひげまでを抜く事をしているが、
なぜネヘミヤがそこまで怒ったのかというと、彼はそこで問題の主導権を握って、世俗化を戒めたかったのである。
それは主イエスが本来のあるべき神の宮が人々の商売の場になってしまって、穢されてしまったので、
そこを清めるためにテーブルをひっくり返した場面を彷彿させる。
ネヘミヤが終始一貫して不信仰と闘ってくることが出来たのは、神との深い交わりから来ている。
特に最後の13章には4回も神への祈りが捧げられており、祈りをもって締めくくっている。
「わが神よ、わたしを覚え、わたしをお恵みください」(31節)とあるが、
絶えず、神のみ前に出ることなくして一貫して神に喜ばれる信仰生活をすることは難しいということなのだ。

友よ、不信仰に戻るのはいともた易い。だが、信仰を継続して立ち上げてゆくことは、神から来る命のお言葉を日々
祈り心をもって拝聴することなしには出来ない。宗教改革は日々成されねばならないからだ。