石叫■           「ピンヒール」

ラフ新報四月二六日付けの「女の気持ち」にあったものだ。心にチョイト痛いメッセージではあるが、大切な語りかけがそこにある。

「学生時代の友人たちが定年退職を祝ってくれるとのことで、ウキウキした気分で電車に揺られていたところ、右足の甲に激痛が走り、
思わず、「痛い!」と声を出してしまった。
電車がガタンと揺れた時に、隣で友人らしい人とおしゃべりしていた大柄な若い女性が後ずさりし、私の足を踏んでしまったのだ。
黒いサンダルの細いヒールが直撃したのだが、「ごめんなさい」と一言謝っただけで私の痛みの程度には無頓着で、またおしゃべりに夢中になっている。
ズキズキする痛みとヒールの跡の残る足をしゃがんで確認したが、とりあえず出血はしていないし、5本の指も動くので、骨折はしていないらしい。
こんな時、彼女にこの痛さを知らせ、万が一骨折の心配もあるので、きちんと謝らせ、連絡先を聞いておくべきか。

でも、電車の中でウルサイおばさんが何か言ってるよ、と皆の注目を浴びるのもどうかな、とモヤモヤしているうちに車内が込み始め、彼女とは離れてしまった。
帰宅後も赤くすりむけ、そのまわりが青黒く内出血してはれている足を見ながら思った。
私も何かの折に他人を傷つけておきながら気づかずに、軽く、「ごめんなさい」だけで済ませてしまったことがたくさんあったのかもしれないと、
在職中にお世話になり、心温かく送り出してくれた皆の顔が思い出された」

ここにあるように、お互いはどんなに気づかずに他人を傷つけてきたことであろう。
また気づいていたにしても、それがどれほど深く相手の心を傷つけていたのかも分からないというのが、現状ではるまいか。

聖書は言う、「わたしは自分のしていることが、わからない」(ローマ七・一五)。

これはパウロが自分の意に反して心に起こって来る罪の思いを指す。大使徒にしてそうなのだ。人は自分自身をどうすることも出来ないという事であろう。
他者に対しても、ピンヒールのかかとや先鋭な言葉がどれだけ相手を痛めているかが分からないので、「ごめん」の一言で終わってしまうのである。
一方、主イエスはピンヒールどころではない、十字架で釘と槍に刺されたのだ。私たちはその痛みを計り知ることすら出来やしない。
だから私たちは自分のしていることが分からないというのが全ての原点である。この女性のように、それがあってはじめて相手に対する思い遣りが始まる。