石叫■          「砂漠が美しいのは」

 横浜緑園教会の原田憲夫牧師が「変わらない約束」という本の中で、「星の王子さまが聖書の扉をたたく」、というお話をしている。
夏の暑い盛り、冷たい水が渇いた心を潤すようにスーと入ってくるようなメッセージだ。
「星の王子さま」は著者のサン・テクジュべリによって第二次世界大戦の最中、亡命先のアメリカで書かれたもので、
サハラ砂漠に不時着した飛行士とそこで出合った不思議な王子さまとの思い出をつづったものだ。

 さて、砂漠で飛行士と王子さまが「水」を探しているときに、王子さまがふとこんなことを言います。
「砂漠が美しいのは、どこかに井戸をかくしているからだよ……」
そして、こうも言います。
「ぼく、その水がほしいな。のましてくれない?」

このとき王子さまが渇いていたのは、目に見える水ではありませんでした。心を満たす上からの水でした。

 この一言を目にするまで、砂漠の美しさということについて考えたこともなかった。
ましてや渇ききった砂と石に覆いつくされた砂漠と水との関係も考えてみたことはなかった。
でも、よく考えて見ると、そこにある美しさというのは、命のみなもとである水があるから美しく感じられるのだった。
そこが水も何もない渇ききったように見える砂漠であっても、そのどこかにオアシスがある。
その周りには棕櫚などの木々があるから人が住めるし、そこはかとなく郷愁を感じさせるものがある。
砂漠が何とはなしに人を惹きつける魅力があったのは、そこには「星の王子さま」が言ったように、水があるからだ。
そして、そこに人間の原風景があるからではなかろうか。

 へブル書には、「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」( 11:1 )とある。
まだ見えてはいないけれども信仰によってそれを見るというのである。サン・テクジュべリの言葉だが、
「大切なものは心で見る」のでなくては見えないという世界なのだ。そして見るべきものは、命のみなもとなるお方である。
その神から来る水であればこそ、私たちの渇ける心をあふれる程に満たしはしないだろうか。