石叫■         「あなたは特別に大事」

大塚野百合の「老いについて」という名著がある。その中の次の人物の生き方が心に留まった。
フランスで「ラルシュ」と呼ばれている知恵遅れの大人の施設を始めたジョン・バ二エという人物である。

「一九八八年にやまばと学園にバ二エ先生が来られました。彼の表情は、私を驚かせました。
著作には、彼の鋭い知性がきらめいているのですが、その知性が、愛のまなざしにかき消されて、先生も一人の知恵遅れの大人に
なっているのです。
ヨーロッパで有名な講演者として、聞く者に深い感銘を与えている先生ですが、謙遜という言葉が似合わないほどに腰が低いのです。

 特に忘れられないのは、ホスピスで働いておられる先生の一人の姉妹について語られたことです。
彼女は一人の死をまえにしている患者のそばにただじっと座って編み物をしているのです。その病人にとって大事なことは、
そばに居てあげることなのです。その人に『あなたは、私にとって特別に大事なのですよ』と言ってあげることです。
一人一人が人類の花園の花で、その花々がこの世界を作っているのです。その一人のために時間を使い、
一見無駄に見えるような時間を過ごすことが、ほんとうの意味で人間をいかすのだとバ二エ氏は言います。

これこそ本当に『人間らしい』姿です」。

自分の時間を他者と共に過ごすというのは、ルカ十章の、良きサマリア人のたとえのように、愛がなければ出来ない行為の一つである。
半殺しに遭った名も知らない人物に対して、気の毒に思って、オリブ油とぶどう酒とを注いで包帯をしてやり、自分の家畜に乗せ、
宿屋に連れていって介抱し、宿屋の主人に世話を頼み、余分な費用がかかったら、自分が払うとまで言ったのだった。見ず知らずの人に、
それが出来るのは、この「気の毒に思う」という思いがあってのことだ。その現場を通ったユダヤ人の神の律法を説くエリート達には
出来なかったことだ。否、誰一人「良いサマリア人」のようには成りえない。

罪の中で、半死半生にあった私たちを「気の毒」に思って介抱して下さったのは、他でもない十字架にかかった主イエス様なのだから。

神の一人子の血が流されたのは、私たちを生かすためであったが、それは自分の内側を知る時、神の無駄とも思える行為ではなかったか。
でも、神がそれを百も千も承知でそうなさったのは、私たちを信じ期待したからであり、
「あなたは、私にとって特別に大事なのです」と気づいて欲しかったからだ。