石叫■            「お点前」

『茶の湯の心で聖書を読めば』という高橋敏夫師の本をご紹介しよう。
高橋師は表千家の教授でもある。よくハーベストタイムでも紹介された先生であり、春日部福音自由教会の牧師でもある。
その一端なりをしたためよう。

「仲秋の底冷えする京都山崎に妙喜庵(みょうきあん)を訪れた。ご住職の計らいで、妙喜庵内に現存する国宝の茶室
『待庵』(たいあん)に入室を許されたからである。ご住職は庭を掃いておられた。千利休が造ったと言われる茶室が、
四百年の歳月を経て存在することは奇跡である。

この茶室は一五八二年に、山崎の戦で光秀を討った戦勝記念に、秀吉が利休に命じて造らせたという。
待庵は、二畳という小さな茶室である。壁は藁を混ぜた土壁で、農家の納屋を思わせる草庵である。無駄な動きをする余地がない。
そこには“和敬清寂”を創造する知恵の結晶があるように思えた。  

私は利休を演じる役者のような心持ちで、お点前を始めた。客は高山右近、蒲生氏郷、細川忠興、あるいは利休と秀吉の情景を
思いうかべながら、侘び茶とは何かを求めつつ、頭の中で茶を点(た)てた。

利休の侘び茶は死ぬことから始まる。“一期一会”とは本来茶の湯から出た言葉であるが、茶事での“一期一会”とは、
今この時の出会いを何よりも大切にしている証しとしての一服があり、同時に、飲み終えたのちに来る別れをも察知している。
生きること死ぬことの知恵の言葉である。いわば私にとって茶道は、生きること死ぬこと、また共に生きることの修道なのである。
私は、そのような思いから“侘びの心”を学び始めた」。

この茶の侘びの心の深みとて私には知る由もないが、その茶道の原点を聖書に見る時、パウロの、「生きるのも主のために生き、
死ぬのも主のために死ぬ」(ローマ一四・八)とのみ言葉に照らし合わせて見ることができよう。パウロは彼の存在すべてがキリストのためで
あると教えられた。だから彼の生も死すらもキリストに一切の栄光を帰する事を心から願ったのである。

そうならば、「人にではなく主に仕えるように、快く仕えなさい」(エペソ六・七)とあるように、日々のお点前なるコーヒー一杯でも、
主イエス様に差し出すように心を込めたいものである。教会でも、心を込めたお点前なる賛美を、否、今日の私たちのお点前なる生き方を
心から主にお捧げしたいものである。

さあ、あなたの今日の信仰のお点前を拝見させていただこう!