石叫■            「一輪の花」

 「教会へ行ってみようという気にさせたものは”一輪の花“でした」と語るのは水落公子姉です。主のみ業を見る証しであった。
以下その下りである。

 一九九〇年頃、私はまだ精神的に幼く、夫との関係は暗いトンネルのようでした。
ビザの関係もあって、アメリカを出る勇気がなかったのです。

そんな中、近所の竹内さんというクリスチャンの誕生祝いに誘われました。まだ教会へ行き始めていないある日のこと、
竹内さんの友人が一輪のバラを持って公園へ現れました。それが誕生ギフトでした。人から花をもらうなど、夫からさえもないと気がつくと、ショックでした。
そして、「私も一輪でいい、花が欲しい!」と強烈に願いはじめました。そこで、「この竹内さんみたいに、教会へ行ってみよう」と思い立ち、
その年の秋からベニス・サンタモニカ教会へ通うようになりました。まもなく、皆さんと打ち解け、日曜日が一番楽しみになったのです。
そして、夫にも笑顔が向けられ、会話も増えました。

 それは、突然来ました。その翌年のイースターの頃です。家庭集会の帰りの夜中のフリーウエイで聖霊様が私に働いて下さったのです。
この私の罪のために十字架にかかり死んで下さったイエス様を「殺せー」と叫んでいる群衆の一人が私だったと気づいたのです。そして、
私の一番の罪は夫をないがしろにしてきたことだと知らされました。私の口からはただ「ごめんなさい」としか言葉が出ませんでした。
それからは夫婦喧嘩もしなくなり、冗談言ったり笑い合う夫婦になり、聖書の御言葉が何よりも必要な生活になりました。

 ある年の私の誕生日に会社から帰って来た夫は、てれくさそうに私にプレゼントを手渡してくれました。それは両手で持つのも大変なくらいの大きな花束でした。
とうの昔に忘れていた「夫から頂く一輪の花」は、願った以上のものでした。それはとても美しくきれいでした。
「いいんですか! こんな私がもらってもいいんですか!」と思うと嬉し涙がとまりませんでした。
それは、イエス様の十字架の愛を知って救われた日の喜びに似ていました。

 「わたしはシャロンのばら、谷のゆりです。おとめたちのうちにわが愛する者のあるのは、いばらの中にゆりの花があるようだ」(二・一)と雅歌にある。
自分が変えられる時、愛する者も変えられてゆくというのだが、それは、あたかも以前はいばらであった者がゆりのように美しく変えられるようなものである。

あなたも心を主に向ける時、一輪ならぬ大輪の花が備えられている事を知るべし。