石叫■ 「ドロローサ」
先週は三泊四日にわたって牧師リトリートがパサデナ近くのシエラ・マドレで開かれ、四十名近い関係者が集った。
特にハワイ在住の牧師たちが企画したプログラムは、実にリトリート(退修会)に相応しいものであった。
場所は、マーテル・ドロローサ(母なる十字架への苦しみの道)という名のカトリックの修養会場で、閑静な住宅街の片隅にあり、
山の裾野に位置していて、静思には持って来いの場所であった。
ここ数年はここで開かれていたのだったが、今までにない企画が用意されていた。
午前も午後も夜も、とにかく祈りの時、神との交わりの時、それのシェアーの時に費やされたのである。
リトリートでこんなにもゆっくりと静思の時を持ったのは初めてのことかと思う。
そこはドロローサとあるように、主イエスが十字架について死んでゆくまでの十四のステーションが設置されてあり、
それぞれに立派な石造りの中に主イエスが十字架につくまでのプラークがはめ込まれている。それを三日目の午前中の静思の時に、
一時間かけて用意された案内書を読みながら一つ一つのステーションを回るのである。時にはひざまずいて祈るもの、
ぐしゅぐしゅ泣きながら頭を垂れる者、それぞれに思いを秘めながら、主イエスが十字架を背負ってカルバリーの丘で
十字架に死んでゆくまでの様子に心を痛め、思いを馳せるわけである。
そこには聖書に記されていないステーションもある。例えば主イエスが十字架につくまでに三度も倒られたとか、
母マリヤがわが子イエスに向かって話し掛ける場面とかである。それらはカトリックの口伝から来ているが、
その二千年の伝統を見ることによって主イエスの苦しみを目の当たりにし、心に深く留めることが出来るというのは、
信仰の先達の知恵である。
確かに「見ずに信ずるは幸い」(ヨハネ二十章)とある。それは疑い深いトマスに言われた主の言葉であり、
トマスが見なければ信じないと言ったからである。それはまた主が天に昇ってしまったら誰も主を見られなくなるので、
後世に続く私たちのためでもある。そのためにも主はそう言う必要があった。
でも、昇天前に主は何度も弟子たちに現れたではないか。ご自身を見せたではないか。
それは信仰の弱い弟子たちに信じてもらうためであった。
聖地巡礼はその典型であり、カトリックはそれを遵守しているわけだ。
今回の小さな巡礼によって、少しでも主の苦しみに目が開かれたのは幸いであった。