石叫■ 「燃やされよ」
今年のオレンジ郡教会の年間聖句はへブル書十二章にある
「きよくならなければ、誰も神を見ることはできない」である。
これまでの教会の歩みを振り返って見て示されて来たことは、やはりこの教会・教団が掲げてきた
「きよめ」の信仰であった。これをこの年のテーマとしたい。
山上の垂訓に、「心の清い人たちは、さいわいである。彼らは神を見るであろう」とある。
ちょうど花婿が花嫁を待ち、その一つになることを待望するように、神を慕う者に神は見えるというのだ。
その見えた者の話しだ。
マタイ二十章のエリコの町に住む盲人達は、主イエスが目の前を通ることを知って、「私たちを憐れんで下さい」と叫ぶ。
大勢の群集がそれを引き止める中でも、彼らは叫び続けたのだった。ようやく主はその足を止めて、「何をして欲しいのか」と尋ねる。
癒し主の前で盲人が願うことは、目を開けていただくこと以外にあるだろうか。何をして欲しいのかと問うのは愚問ですらある。
だから盲人たちは当然、「目を開けていただくことです」と応える。でも、主の質問は、「だから何をして欲しいのか」なのだ。
救い主を前にして、あなたの本当に必要としているものは何かと問われるのだ。人は救い主を前にしても、目先のことしか見えてはいない。
確かに目が見える事によって社会生活が出来るであろう。でも、それだったら、元の生活に戻るだけではないか。
一体、主は何を願っておられるのであろう。
この問いに光を当ててくれるのが、エマオの途上(ルカ二十四章)の弟子たちに起こった出来事だ。
彼らに現れた人物が夕食のパンを渡しておられるうちに彼らの目が開けて、それが主イエスだと分かったというのである。
その時に彼らの「心が内に燃えた」とある。心の目が開けて主だと分かると、心が燃えるのである。主イエスの愛に圧倒されるため、
喜びに溢れるからだ。献身の思いに導かれ、本来あるべき神との関係に立ち戻ることが出きるからである。
それが主にまみえた者の本来あるべき姿である。
盲人達の話に戻ろう。救い主に求めるべきものは、心の目が開けて、主イエスを信じる喜びに満たされることなのだ。
心が燃えることなのだ。だから見えるようになった時に、彼らは主に従って行った。心の目が開けたからだ。新しい年、主にまみえ、
私たちの心の目を開けていただこうではないか。そのためには聖書日課に親しむことだ。そして心燃やされよ。