石叫■          「主の恵みの年」

 ルカ福音書四章十八節に次のようなみ言葉がある。

「わたしの上に主の御霊がおられる。
主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、
わたしに油を注がれたのだから。
主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、
盲人には目の開かれることを告げるために。
しいたげられている人々を自由にし、
主の恵みの年を告げ知らせるために。」

この「わたし」とは主イエスのことであり、「主」とは父なる神である。この言葉を主はナザレの会堂で宣言された。
これは主イエスの生まれる八百年前のイザヤ書六一章のみ言葉の引用であり、これが主イエスによって成就されたというのだ。
これが主の三年半に及ぶ宣教活動のスタートであった。

さて、ここに出て来る「主の恵みの年」というのは、レビ記二五章にあるヨベルの年のことである。五十年目の安息年の事であり、
国中のすべての住民に、それぞれの家族、自分の所有地に帰ることが出来るという宣言である。この儀式は、二匹のやぎを捕らえ、
一匹をアザゼルの山羊として、すべての民の罪をその山羊に負わせて野に放ち、もう一匹は殺してその血を祭壇の上に散らし、
すべての罪のあがないをさせる。そして羊の角で造った角笛を吹くのだった。その旧約聖書の約束が主イエスのよって成就したというのだ。
主はアザゼルの山羊として、民の罪を背負い、十字架を祭壇にして血を流す。それによって私たち信じる者に永遠のヨベルが
約束されたのである。そして過越しの祭りの最期に犠牲の動物が殺されたように、主イエスも十字架で同じ時にほふられてゆく。
その時に角笛が鳴った。やがて主が再び来られる時に、角笛のラッパによって、このヨベルの年が完成し、主と会うのである。

それと同時に、このヨベルは主イエスを信じる私たちの生活の中で実行されるべきものである。またそれは神を信じた者の聖なる責任である。
つまりこの自由と解放は日毎に神との対話である聖書と祈りというデボーションの中で味わうべき性格のものである。
ヨベルを宣言して下さった主との交わりこそ福音であり、喜びだからだ。もう二度と罪に縛られないためにも、このヨベルという恵みを、
天のマナを日毎に頂くように味わうべきである。