石叫■           「一筋の光」

百万人の福音(二〇〇七年)七月号の「ほのぼのストーリー」というコラムがある。何とも心暖まるものがある。
それをご紹介しよう。

 春休み家に戻った。父は幾分やせたように見える。しかし、ふつうに働いている様子を見て、間違いであってほしいとまた思った。
胃潰瘍だと家族から言われていたが、あるいはすでに気づいていたかも知れない。床の間に、それまで見たことのない木の根の
飾り物があった。しかもその前に、お供え物がしてある。だれがこんな趣味を、祖父か祖母か・・・木の根の由来を聞いた。この木は、
父が癌だと分かる少し前まで家の庭にあったもので、虫食いがひどかったらしく、父が伐採した。占い師に、病は木を切った「たたり」
だと言われて、根だけでも供養しているのだという。


父は八月末に他界した。ぼくはその最後を看取った。しかし二日前までは、キャンプに行っていた。今考えるとキャンプ場よりも、
人生の最期を迎える父のそばにもっといてやるべきだった。しかし、一つの小さな希望が、あの床の間の木の根がきっかけで与えられていた。
実は、父が亡くなる三週間前、教会の牧師が家に来てくださり、「その呪いの木を私が引き取りましょう」と言ってくださったのだ。
家族も、キリスト教の牧師が引き取ってくれるのならと、木の根を手放すことに恐れを抱かなかった。父はその時、牧師の祈りのあとについて、
悔い改めの祈りと、「イエス・キリストを信じます」と、信仰告白をした。牧師のあとをついてそう言っただけで、洗礼も受けなかった。
葬儀が仏式。そこに救いはあるのだろうか。ぼくには分からない。死にゆく父のそばにずっといてやれなかったことを今も悔やみ続けている。
そんなぼくに、父は最期に「がんばれよ」と言ってくれた。かつて家族の反対を無視して、教会で洗礼を受けたぼくを受け入れてくれたのだ。
もっと父と聖書の話しをしたかった。しかし今、そんな私の弱さの上にも、一筋の光が注がれている。そんなふうに感じる。

 占い師から「たたり」だと言われると、怖いので金を積んだり、お百度参りをすることになる。そのような呪縛から私たちを解放するために
主イエスは来て下さったのである。「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さった」(ガラテヤ五章)とある通りである。
そこにあるのは平安である。この主人公が光を感じたゆえんである。