石叫■           「愛はひと声」

 この世の中で愛という言葉ほど頻繁に使われている言葉はないし、実践の難しい言葉もないであろう。
主イエスは、「律法で、どの戒めが一番大切ですか」と質問された時に、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、
主なるあなたの神を愛せよ」。これがいちばん大切な第一の戒めである。
第二もこれと同様である。「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」(マタイ二二章)と言われている。
私たちはこの戒めを読む時、第一とか第二とかとあるので、優劣があるように思いやすい。

だが神を第一とするという時、それをどう実践するのかというと、何も礼拝だけをしている訳にはいかない。
愛はそれを実践することによってはじめて隣人に伝わってゆくからだ。だから神を愛するというのは隣人を愛することでなければならない。
第一ヨハネ四章にも、「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者は、偽り者である。現に見ている兄弟を愛さない者は、
目に見えない神を愛することはできない。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきである」とある通りである。

 エリコの町にいた取税人のザアカイは皆の嫌われ者であった。そんな彼に友人は一人も居なかった。
エリコの住民も神の民であり、それを自負していたはずである。でもこの一人の住民をすら愛せない彼らはやはり神を愛しているとは
言えなかった。神を愛するならば、ザアカイをも心に留めなければならなかったからである。彼に近づいたのは、主イエスしか居なかった。
しかしである。だからと言って、どうしてエリコの住民を裁けよう。私たちがそこに居たら、やはり彼らと同じくザアカイを愛せなかったからだ。

神はそのザアカイのような隣人を愛せと命じている。そのような人物を愛することが神を愛することであり、
それはまた自分を愛することにもつながる。だが、その一人の人物すらも愛せないお互いであればこそ、神の助けが必要なのである。
最も身近な家族であっても、自分の都合や打算で愛することがあるではないか。この世で隣人を愛することほど困難なことはなく、
神の助けを必要とするものはない。でも、そんな私たちにも、「神の愛がわたしたちの心に注がれている」(ローマ五章)とある。
主イエスが一人のザアカイを愛するために近づいて行ったように、あなたにも声を掛けておられるのである。それは取りも直さず、
そのようにあなたの隣人にも一声かけて欲しいからだ。それが神の第一の心からの願いであり、戒めである。