石叫■         「いい人に変えるもの」

 羅府新報に「ポスト定年プラン」というコラムがある。著者の加藤仁氏のものだ。
そのタイトル「認めあう関係」に以下のようなものがある。

 

 九州の介護施設に、身寄りもなく、見舞う者もいない、七十代半ばの女性がいた。長年、さまざまな職業についていたという。
この女性には軽い認知症の症状が見うけられた。日ごろはそれほどでもないが、施設で誕生会やひな祭りなどの催しがあると、
職員の手を焼かせる。催しの最中、女性はマイクの前に立って、だれも望んでいないにもかかわらず、お座敷ソングをうたい、
下品な話をして雰囲気をぶちこわす。職員がたしなめると逆ギレする。この女性は、いつも娘夫婦や孫が訪れるほかの入所者たちを
まぶしく見ていたらしい。自分はさんざん苦労してきたが、それだけに人間関係や本音を知っているという思いがあるのか、
施設内で振りまかれる笑顔、やさしさを偽善としてとらえ、反射的に異を唱える行動に出たようである。おのずと施設の嫌われ者になり、
無視される存在になっていった。しかし、この女性が一転して「やさしいひと」になった。ある夜、同室の入所者が胸苦しさをおぼえ、
ベッドに備えられたナースコールを押そうとしたところ、思いどおり操作できず、四苦八苦していた。その姿を見て女性がナースコールを
したことにより、緊急事態を回避できた。以来、施設内では「あの人はやさしい」という評判がたつ。施設長によると、
周囲が「やさしい」「いい人だ」としきりに言うと、本人もやさしい人になってしまい、揉めごとも起さなくなったという。
定年を迎え、新たな活動を踏み出すと、見知らぬ人たちと接する機会も多くなる。まずは相手を認め、尊重すれば、良き交流がはじまる。

 ピレモン書にパウロはオネシモの事を記す。「彼は以前は、あなたにとって無益な者であったが、今は、あなたにも、わたしにも、
有益な者になった」とある。オネシモは主イエスを信じることによって、以前の「嫌われ者」から一転してその名の通り
「いい人」に変えられた。主に出会うことによって、人は自分中心的な生き方から他者に仕える喜びに変えられるものである。
そうさせたのは愛されているという自覚である。愛の力である。