「ヨセミテ・ハーフドーム」そのC

 その二つの滝を越えたのは九時頃だった。それだけでもう五時間も経過している。
でも、彼らのペースに合わせて歩くので、続々と登って来るハーフドームへのチャレンジャー達に
追い越されるばかりだ。でも少しでもハーフドームに近づきたいという博美さんの執念が少しづつ
僕らを山頂に近づけてゆく。滝を過ぎるとそこはリトル・ヨセミテ・ヴァレーと言われる平坦地だ。
本来はそこに一泊するつもりで準備をしてきたのだった。
そこはマーセド川が実に豊かに緩やかに流れている。人の心をのんびりさせる所だ。
そしてそこからは聳え立つハーフドームの背が松林の間から見え隠れする。そしてやはり思うのだ。
「まさか、あれに博美さん達が登れるはずはない」と。でも、信子さんは休むとかえって疲れるというので、
休もうとはしない。それで博美さんも連れられて歩くことになる。

牛歩のようなペースで緩急な登りの二時間あまりが過ぎると、その辺りでいよいヨセミテ・ヴァレー側に
ルートが移り、そこからまたハーフドームの全貌が見える。しかし、それがまた見上げるばかりの高さだ。
そして北側が半分切り落とされたような険しさが、人を寄せ付けない厳しさで迫ってくる。
そこでまた思うのだ、「とてもあそこまで博美さんたちが行けるはずはない」と。
でもまた信子さんが先頭をきる。ところが、そこら辺りに来るまでは足の感覚がなくなるほどに
フラフラに疲れきってしまっている。しかも、そこはあまりに急峻な坂になっており、手に手を取りながら
歩かないと危険なので、満君と僕とはそれぞれ二人の手を携えての登りとなる。

 休み休み、フーフーハーハー言いながら、いよいよハーフドームのケーブルの張ってある最後の
取っ掛かりまで来た時だ、信子さんが、「わたしゃ、とても怖くて登れないよ」ときた。でも博美さん、
「ここまで来たのだから登ろうよ」と彼女を励ます。そこは誰しもがビビるところなのだ。

 四五度近い急斜面にケーブルが山頂まで張ってある。そこから見上げる山頂付近はとても
人を寄せ付けるようなやさしい山ではない。しかも、そこに行くまでに両側が断崖絶壁の細い馬の背のような
道を通る。そこを通るだけでも足がすくむ。それにそこからは花崗岩のつるつるの表面で、
一旦足を滑らせたら、もう助かるすべはない。一瞬でも手をゆるめたらそれは死を意味する世界だからだ。
数ヶ月前に一人の日本人が、この辺りで滑落死している。