◎石叫■            「迫害」

パウロはピリピの獄でシラスと一緒にいた。その前に彼らはムチでひどく打たれていた。
ローマの法律のもとで受けたムチにはその回数に決まりがないから、何度打たれたことか。
ひとたび背に打ちこまれると、その先が眼前に迫る。そして肉が裂ける。しかも足かせを
「しっかり」と二回も繰り返して言われている程にがっしりと架けられていた。
でもそんな中で彼らは、「神に祈り、賛美を歌い続けたとある」(使徒行伝十六章)。
そのような肉体的限界とも言える状況の中で、なぜ賛美を歌い続けることができたのか。

パウロは敬虔な信者であったステパノを殺した。彼は最初の殉教者であった。
彼はその死を目撃してキリストの信仰に生きる者の強さを知らされたのだった。
その後、主イエスの霊に遭遇した時に、主の愛の迫りを知ってついに伝道に立ちあがったのだった。
それは迫害をものともしない鬼神のような勢いであった。その生涯において彼はムチ打ちを
八回も経験している。考えただけでも気が狂うようなそれを耐えさせたものは一体何なのであろうか。

それは何としても、神の愛の迫りであろう。福音を伝えることは神のみ心であり、主イエスを
証しすればする程、主が共に居られるという神の臨在の喜びを覚えたからであろう。
だから獄にあっても、そこは天国だったのだ。それは叫ばざるを得ないほどの歓喜であり、
彼を衝き動かした要因である。

友よ! そのような飛びあがるほどの喜びを経験したいものである。
パウロのような迫害による喜びを味わいたいものである。そのために伝道しなければ! 
伝えなければ! そして何よりもそのために祈らなければ!

十数年前に中国のクリスチャンを訪問した時のことだった。そこでは獄に入っていた何人かの
証しがあった。でも、一様に彼らの陽に焼けた顔の何と美しく、しかも生き生きと輝いていたことか! 
彼らの異口同音に、「また獄に入ってでもいいから伝道したい」と言う言葉が忘れられない。

これらの証しがそうであるように、私たちが生きているのは、主を証しするためである。
そうでなかったら何のためのクリスチャンであろうか。私たちはそのために生きている、否、
生かされているのである。ピリピ書一章でパウロは、「わたしにとっては、生きることはキリストであり、
死ぬことは益である」とある。キリストが全てなのである。そうならば、キリストの喜ばれるように
生きようではないか。そしてその歓喜を取り戻そうではないか。