「私たちは王子」

ドイツのハンブルグに、貧乏な靴屋さんがいました。朝から晩までぼろぼろの靴の底をたたいて、暮らしを立てて
いました。多くの人々が、街へ出かけたり、遊びに行ったりするのに、この人の楽しみといえば、店先の一羽の小鳥の
鳴き声を聞くくらいのものでした。けれども靴屋さんは言いました。「ああ、この小鳥は幸いだ。食物にこまることも
なく、こうして毎日歌っていられるんだ・・いや、私だって幸いなんだ。小鳥よりも幸いなんだ」と言っては、いつも
一生懸命に働きました。ある日のこと、そこを通りかけた大学生が、「おじさん、あなたはずいぶんと楽しそうですが、
どうしてですか」と話しかけました。そこで靴屋のおじさんは、「はい、そう見えますか。考えれば考えるほど、
私は幸いなんで」。「どうしてですか。失礼ながら、お金持ちでもないのに」。「はい、私はこの二の腕二つのほかに
何にも財産というものはないのです。このやせ腕で、おおぜいの家族をやしなっているのです。けれども、私は
嬉しくてたまらないのです」。「それが、不思議なんです。あなたのような貧しい人がそんなに喜んで・・・」。
「だって、学生さん。こう見えても、実は、私は立派な王さまの息子・・・王子です」。大学生はそれを聞くと
あきれて、「ひやー、これは気ちがいだ。だから、貧乏を貧乏とも思わないのだ」。と言って逃げ出しました。
それから一週間ばかり後のこと、その大学生が靴屋の前を通りましたので、ふざけて、「いよう、王子さま、
ごきげんよう!」 と呼びかけますと、靴屋さんは、「これ学生さん。こないだは、話しが中途で切れました。
あなたは私を気ちがいだと思ったのでしょうが、そうでない訳は、この本に書いてあります」と言って、聖書を
見せながら、「私たちは、世界の造り主なる神さまに愛される子供、すなわち王子です。神さまにたよる者は、
朝から晩まで働きつづけても嬉しいのです」と言いました。そして靴屋さんは、おおぜいの大学生を、神さまに
導いたのでした(「日曜百話」一九五七年・東京ヨルダン社)。


ヨハネ福音書一章に、「しかし、彼を受け入れた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を
与えたのである」とある。つまり私たちは天地の創造主である王の子なのである。天の諸々の約束も富みもすべて
私たちに与えられているのである。そう!お互い、何というとてつもない大きな祝福を受けていることか! 
それを喜ぶことが私たちの仕事である。