「わが臨在」

 この夏のサンタバーバラでの夏季修養会主講師の工藤弘雄先生は、最終日の派遣礼拝において次のような
メッセージを語った。例年にない豊かな神の臨在の迫りを覚える実に霊調の高い聖会であった。

 出エジプト記の三章にあるが、シナイ山でモーセは燃える柴を見る。それは不思議と燃え尽きることがなく静かに
燃えていた。だが柴ほどもろいものはないし、価値のないものはない。しかも燃えたと思ったらすぐに燃え尽きて
しまうのが柴である。でもそれは赤々と燃え続けていたのである。

 モーセはエジプトの王としての富も権力も保障されていた王子ではあったが、「罪のはかない歓楽にふけるよりは、
むしろ神の民と共に虐待されることを選び」(ヘブル十一章)とあるように、あえて荒野での生活を選んだのであった。
その彼の生き方は、まさに燃える柴のような人生であった。工藤先生の奉職しておられる神戸の塩谷の神学校は、
徹底して自分がいかに無力であり、いかに弱く、もろいかを知ることにあると初代校長の沢村五郎は語ったという。
モーセは自分が柴のような存在であるとの自覚を徹底して学ぶために、この荒野の神学校で訓練を受けたのであった。

 その柴を燃やしている火はすべてを焼き尽くす。どんな汚れも不純物も、神の火は焼き尽くすが、その火はまた
輝きもする。その細大の魅力はきよい輝きだ。イギリスの貴公子B・Fバックストンは日本伝道隊の長でもあったが、
イギリスでのある日、整骨院に行った時のことであった。階上にゆくためにエレベーターに乗ったのだが、その時に
係員が同行した人物に尋ねたのだった。「あのご老人はどういう方ですか。ほんの僅かの時間、エレベーターに
お乗せしたのですが、そのお方と一緒にいるだけで、自分は何と腐った人間だろうと思うのです」と。
聖霊の臨在はきよい輝きである。


 その燃える柴の中から主は言われた、「足から靴を脱ぎなさい。あなたの立っているその場所は聖なる地だから
である」と。そこでモーセは靴を脱いだ。それは権利を主に明け渡し、まったく主により頼むという意味である。
彼はそこからエジプトという霊の戦場に遣わされたのであった。私たちの遣わされる所は祈りの戦場であり、
サタンとの闘いである。そこでの闘いを勝利に導く唯一の道は、「わが臨在、汝と共にあるべし」(出エジプト三三章)
という主の言葉の約束である。それが何よりも肝要である。