「自分の行動に責任を」

ラフ新報に「たつ子の相談室」というコラムがある。この五月二五日のものだが、これがとても光っていた。
それはユタ州の男性からの相談であった。

「僕の弟は怠け者で、これといった仕事につかず、目先のことしか考えないで高校も中退し、車の修理関係の仕事を
してはいますが、何をしても駄目なやつです。でも時にはドラッグや酒におぼれ、どうなることかと思ったりした
こともありましたが、奇跡的に止めることが出来ました。これにはびっくりしました。しかし他のことはみんな家族が
尻ぬぐいをさせられているのです。女関係も激しくて、二人の女性を妊娠させ、その尻ぬぐいもさせられたりと、弟は
僕だけではなく、お袋にも親父にも苦労をかけっぱなしです。その弟が何を思ったのか、今度は犬のグルーミング
(成育一切に関わる仕事)になると言い出しました。その資金を出して欲しいと言うのです。以前も同じような
ことをして、お金を貸したことがあり、結局はだまされたようになってしまい、今回もそれをやるのではと疑って
いるのですが、女房には、もうこうして弟に振り回されるのは止めて欲しいと言われています。でも、もう一度
チャンスを与えて上げたいという気持ちにもなるのですが、何せ弟の頼れるのは、僕しかいません。どうしたら
良いか頭を悩ませています」。

たつ子先生の応答だ。
「尻拭いをさせられた」ということですが、ここであなたやご両親は尻ぬぐいを「させられた」のではなく、
「してあげた」。 そして騙されたのではなく、「お金を貸したら失敗して返金してもらえなくなった」と自分たちの
行動は自分たちで責任をもつ。そうすると弟さんの言動を「駄目人間」とう観点からではなく、もっと客観的な
立場からみられます。

 ここで大切なのは、「自分たちの行動は自分たちで責任をもつ」という考えである。
とかく私たちは、相手の欠点ばかりを見て責めやすい。確かに約
束をしておいて返せない方が悪いのだが、
その相手の能力を見ぬけなかった
こちら側にも確かに落ち度はある。自分の行動に責任をもつとは
そういうこ
とである。相手だけを責められないのである。
主イエスは、「まず自分の目から材木を取り除きなさい」(マタイ七章)と

言われるのだが、これが客観的立場である。相手を責める前に、自分の言動に責めるべきところがないかと一歩
下がって自分を見つめる時に、逆に自分が見えてくるというものである。さすが、たつ子先生はさえてます。