「嵐の中での眠り」

詩篇三篇はダビデが自分の子アブサロムに追われ、殺されそうになるという状況の中で詠まれたものである。
ここに「わたしはふして眠り、また目を覚ます」とあるが、私たちは何か少しでも痛みや悩み事があると、それが
心配で夜も眠れないということが時にはある。だから、実は眠れるということほど幸いなことはないのである。
それはちょうど赤ちゃんが母に抱かれて安らかに眠るようなものである。それは母に対する信頼があるからである。
実はこのみ言葉は十七年前に、家内が心臓移植をしなければならない時に与えられたものであり、これによって
命にも関わる事態を乗り越えることが出来たという思い出に残るみ言葉の一つなのである。

マルコ四章に、激しい突風が起り、波が舟の中に打ち込むと云うストーリーがある。そのよう中で主は舟の後尾の
ほうで眠っていた。弟子たちは、イエスを起こして、「先生、わたしどもがおぼれ死んでも、おかまいに
ならないのですか」と叫んだのであった。そこでイエスは起きあがって風を叱り、海に向かって、
「静まれ、黙れ」と命ずると、風は止んで、おおなぎになったとある。舟が沈むような状況の中で、イエスはよくも
眠っておられたものだが、それはイエスが大自然をも支配される神に信頼していたからである。

マタイ十四章では、荒海という試練の只中で、主イエスは湖水の上を歩いて、ご自分が大自然をも支配する神で
あることをペテロたちに見せている。そのために主は、「強いて」彼らを舟に乗り込ませたのだった。試練の中でしか
見る事ができない世界を見せたいがために、主は無理に愛する者たちを嵐の中に追いやったのだった。それが主の
愛の配慮であった。その体験が「本当に、あなたは神の子です」という信仰告白を産み出したからである。

さて、わが子に殺されそうになるという大嵐の中で、ダビデが眠れたのは、彼の生命をも委ねることができる神に
信頼していたからであるが、それは、「伏して眠り」に続いて「主がわたしを支えて下さる」とあるように、神が
支えておられたからなのである。それが安らかな眠りの根拠であった。
今あなたは大嵐の中で眠れずにいるだろうか。
でも、そのような状況にあっても、その枕もとに、添い寝をするかのようにして支えて下さる主の愛のみ手があると
いう約束を信じようではないか。そしてそうして下さるお方を先取りして賛美しようではないか。それが私たちの
つとめである。