「錆(さび)と老い」

 僕は「サライ」という隔週刊誌が好きだ。別に愛読者という訳ではないが、数冊しかないそれを飽きもしないで
何度も読み返している。その中の一つに白鷹幸伯(ゆきのり)という鍛冶屋さんのストーリーがある。愛媛県松山市に
ある自宅で、古代の大工道具を再現し、薬師寺や法輪寺の造営で活躍した。ところで、その人物紹介の所で、次のよう
な文が心に留まった。

インタビューアーの、「鍛えるのは、どんな包丁ですか」という質問に対しての彼の答えだ。

 「真っ黒な、地鉄(じがね)に鋼(はがね)をつなげた昔ながらの土着の包丁ですよ。もう少しこぎれいに磨いて
くれという人もおりますが、僕はこれ以外は作るつもりはない。死んだ兄貴が持ちかえり、友人が大事にしてくれと
言った土佐伝統の黒打ちの技術ですから。黒いのは、鍛冶の酸化皮膜がそのまま残っておるためです。つまり昔の釘が
長持ちするのと同じ理由、こんな素晴らしい自然の錆び止めをわざわざ削ってピカピカにするなんて、もったいなくて
僕にはできない」。

 続いて、「錆に強いといっても、ステンレスの包丁のような訳にはいきませんね」という質問に対して、

 「そう、でも錆びるということも、刃物では大事なんです。包丁の刃は、顕微鏡で見ると、のこぎりの歯のように
なっていて、これが切れ味の秘密です。ステンレス包丁も最初はギザギザがついていますが、使っているうちに
まくれてしまう。昔ながらの和包丁は、先端の鋼の粒子が酸化によってはがれ落ちるんです。つまり、つねに新陳代謝
して切れ味を保つ。自然に薄くなってくれるんですな。はがれ落ちた鉄はどこへ行くのかというと、これは食材と
一緒にわれわれの体に吸収され、ヘモグロビンになるわけですよ。そして脳にたっぷり酸素を送ってくれるわけです」。

 パウロは、「たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく」(第二コリント四章)
と言う。創造されたものは、やがて朽ちてゆく。でも主を信じる者は、その日々の錆とも言うべき老いも、祈りに
よって研ぎすまされて、潮(うしお)のように襲いかかってくる試みを切れ味の良い剣のように払い除けて、鍛え
られた信仰に変えてくれるのだ。老いは霊的に研ぎ澄まされ、成長してゆくために必要な神の祝福である。