◎石叫■ 「幸いな人」
詩篇一篇は一五〇ある詩篇の中の緒論である。そこに幸いな者の生き方が書いてある。
神は幸いな生き方がどのようなものかを知って欲しいがために一篇にそれを表したのだった。
この世には幸いと思われる教えが山ほどある。でも、神の智恵たる聖書は幸いを次のように語る。
幸いな人とは、主の掟、つまり神の愛を「昼も夜も思う」とある。ちょうど、愛する者どうしがいつも
お互いを思うようにである。一方、悪しき者は「もみ殻」のようだと言う。一見、それは実が入って
いるように見えるが、でもちょっとした風で飛んで行ってしまうではないか。内実がないからだ。
外見が栄えているように見えるだけであるそもそも木というのは、自分勝手に場所を選ぶことが出来ない。
自分で精一杯からだを伸ばそうと思っても、周りの木が邪魔したり、虫が来たり、病気があったり、
人や動物が来て折っていったり。あるいは深く根を延ばしても水が得られなかったりする。
木はその置かれた所で育つように定められている。これが運命と言うものであろう。
人間で言えば、韓国人であること、日本人であること、あるいは親や兄弟を選ぶことが出来ないように。
でも人生にはもう一つ、摂理というものがある。神のご計画というものだ。
「運命は冷たいが、摂理は暖かい」と言われる世界だ。その神の摂理とは、神があなたを水のほとりに
植えさせて下さるというのだ。自分ではどうしようも出来ない身動きのできない状態から、いつでも十分な
水を得られる所に植えて下さるというのだ。手足を延ばすだけで、そこに命の清水を得ることが
出きるというのである。そうなのだ、摂理の中に輝くばかりの幸いがある。
ヨセフの生涯は創世記四九章に、「ヨセフは実を結ぶ若木、泉のほとりの実を結ぶ若木」とある。
エジプトの総理大臣として、パロの絶大な信任をえた人物だ。その信仰によってイスラエルを導く神が
いかに恵み深く力のあるお方であるかを人々は知ったのだった。これが実を結ぶ若枝の生き方である。
もちろん、ヨセフは始めから問題のない人間ではなかった。兄弟に裏切られ、殺されそうになり、
誤解されて獄に入ったこともあったのだ。でも彼はその信仰の根を絶えず神に根ざしていたのである。
それが幸いだったのだ。
今は、荒れ野のような状況でも、流れのほとりに植えて下さるというその摂理のみ手に委ねてゆく時に、
必ず豊かな身を結ぶ事を信じようではないか。