石叫■         「宮沢賢治」         

日本人で詩人宮沢賢治を知らない人はいないであろう。でもその彼に多大な影響を与えたのは
斎藤宗次郎という敬虔なクリスチャンであった。

「斎藤宗次郎は一八七七年、岩手県の花巻に生まれた。禅寺の子であった。小学校の先生であったが、
内村鑑三の影響を受けて信仰に入ったのである。でも当事のクリスチャンはヤソ教と言われて迫害を受け、
国賊とまで言われたのである。さらには親からも勘当された。その頃、長女の愛子はクリスチャンの
家庭という事もあろう、九才の時に友達からいじめを受け、その時にお腹を蹴られ、
それが悪化して腹膜炎で死ぬ。

やがて彼は教師を辞め、新聞配達をする。朝三時には起き、夜の九時まで仕事をする。無理がたたって
肺結核になり喀血までする。でもその仕事は二十年間続いたという。仕事から帰って夜の九時から聖書を読み、
お祈りし、更には病人を見舞ったり、いじめた子供たちを励ましたりしたのである。彼は一九二六年に
上京するが、その時に田舎の花巻駅は黒山の人だかりであったという。彼は誰ひとり見送る人もいないで
あろうと思っていたのだが、人々は彼を見ていたのである。町長、教員、僧侶、神主までが斎藤氏の見送りに
来ていた。その見送りの人ごみの中に賢治がいた。その彼を見て賢治は、

「雨にも負けず、風にも負けず、雪にも夏の暑さにも負けぬ丈夫な体をもち、欲はなく、決して怒らず、
いつも静かに笑っている。・・・東に病気の子供あれば行って看病してやり、西に疲れた母あれば行って
その稲の束を負い、南に死にそうな人あれば行ってこわがらなくてもいいと言い・・・
みんなにでくのぼうと言われ、誉められもせず、苦にもされず、そういう者に私はなりたい」

と詠んだのだった。

パウロは何度も、「わたしにならう者になりなさい」(第一コリント四章)と言う。そんな彼とても
完全な人物ではなかった。肉体的にも弱く、気の短い欠けの多い人間ではあった。でもパウロはそのような
自分だからこそ神が用いられたと知った時、彼は同じような弱さの中にあるコリントの人々をも豊かに
用いて下さると信じることが出来たのである。そして彼の信仰にならえと言えたのだ。賢治も多くの
弱さの中にあっても、それらを豊かに用いて下さる神の強さを斎藤氏の生き方に見たのだった。
わたしも斎藤氏のようになりたい。そしてどんな状況をも豊かに用いられる神の強さを信じ続けたい。