◎石叫■           「心の目の変化」

「結び目に愛を」という著者である森本英治という、高校での教職のかたわら、
開拓伝道をしておられる人物のエッセイだ。

「ある時、予定より帰宅が遅くなり、駅へ着いてからタクシーを拾いました。ドアが自動的に開いて
後ろの席に入り、『お願いしまーす。県営アパートの近くまで行って下さい』。
すると黙ってドアが閉まり、何の返事もなく車が動き出しました。何となく変な気持ちになったのですが、
家の近くへ来て、『じゃあ、その辺りでけっこうです』。するとまた黙ってドアが開き、お金を渡すと
黙ってつり銭が返ってきて、出るとドアが黙って閉まり、エンジン音だけを残して車は走り去りました。
私の心の中に少しムカッとくるものがあり、思わず、『何と無愛想な運転手、客が気をつかってしゃべり
運転手がそれを聞いている。これは逆じゃないか。もうこの会社のタクシーには乗りたくないな』。
そんな言葉が出てきそうになりました。その人が何をしたか、どういう風に振る舞ったか、ということを
観察すると、たびたびそれが気に入らないことであるならば、裁いてしまうことになります。
ある場合には憎しみの感情にまで発展し、その相手を排除してしまいたいような衝動に陥るのです。
でも帰宅してから心をおちつかせた時、『なぜ、あの運転手は何も言わなかったんだろうか』と
考えはじめました。『きっとその一日の出発に夫婦喧嘩をしたのじゃないだろうか。あるいは子どもが
病気で入院していて、気が気ではなく早く返らなければというときに、私が乗り合わせたんじゃないだろうか』。
そう思えた時、何かその運転手の行為を許せる気持ちになりました。そして気を取り直して、
『まあ、いいじゃないか。また乗ってあげよう』と穏やかな心を取り戻すことができました。
それは『何をしたか』から、『なぜ、そうしたか』という心の目に変化したからです」。

 聖書に、「何事でも人々からして欲しいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。
これが律法であり預言者である」(マタイ七章)とある。つまり相手の気持ちになってみなさい
というのである。相手の状況が分からないので私たちは裁いてしまうからである。というのも、
相手の身になった時に、私たちも同じことをしているからである。だから裁けないし、裁いては
いけないのである。自分の立場から相手の立場という心の目にシフトした時、今まで見えなかった世界が
開けて寛容にさせられるというものである。