◎石叫■            「希望」

九六才にして聖路加国際病院名誉院長であり、文化勲章を受賞された日野原重明氏が、
「わたしが経験した魂のストーリー」を出版している。これは氏の玉川平安教会での証しであり、
そこには輝くばかりの希望があふれている。

「希望という言葉は聖書の中にしばしば出てきます。最も多く出てくるのは神、キリストという言葉で、
その次に多いのが、救い、愛、信仰、希望です。当時のギリシャの人々には希望という言葉が愛されましたが、
それは期待する、という言葉と同じように理解されていました。キリスト教的な解釈では、希望は忍耐強く
待つということが前提になっています、神への信仰があって、希望が存在する。希望の基礎には信仰があるのです。
シャルル・ペギーという四一才で一九一四年に亡くなったフランスのカトリックの詩人がおもしろいことを
いっています。希望はフランス語ではエスペランスといいます。エスペランスは女性名詞です。若い女性が、
医師から
あなたのお腹には妊娠一ヶ月の女の子がいますよといわれた時の気持ち、これがエスペランス。
その時、この子が大きくなったら社長に、あるいは弁護士になってほしい、とだれが思うでしょうか。
お母さんが思うことは、からだを大切にして、上手に栄養を取って、できれば健やかな子供が生まれれば良い
ということです。高望みはしない。夫婦で平和な家庭をもち、生まれるまで待つ。その気持ちが希望だと
いっています。希望とはそういう素晴らしいものを孕んでいます。希望を持つとは、いろいろな障害に
ぶつかった時に、その状況から脱出しようとすることではなく、むしろどうしたらその状況に耐えることが
できるか、その可能性をあきらめないということです。耐えているうちに世間の条件は変わりますし、
時間が解決することもあるでしょう。じーと待つことです、動物は冬眠をするではありませんか。
春が来ると目覚めるからです。どうかみなさん、忍耐をもって耐えて下さい」。(編集抜粋)

ヤコブ書に、「あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いている」(五章)とある。ヨブは善人であったが、
子供も財産を失ってしまう。それでも彼は神を恨まなかった。そして最後に神から祝福を受けるのだが、
それは神への信頼から来る希望があったからだ。そして希望は失望に終わることはない。なぜなら聖霊によって、
神の愛が私たちの心に注がれているからだ。ヨブのような苦境にあっても、神への信頼から来る
希望の光が見えて来るではないか。