◎石叫■ 「主イエスによる救い」
主イエスは山上の垂訓で、「あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、
決して天国にはいることはできない」(マタイ五章)と言われている。律法学者やパリサイ人の義
とあるが、彼らは六一三もある律法を一つ残らず守ってきた人々であり、その代表格であったパウロは、
律法に関しては落ち度がない(ピリピ三章)と言い切ることが出来るほどに、完璧にそれを守ってきた
のである。でも、天国に入るためには、彼らよりももっと立派に律法を守らなければいけないと言われる時に、
では一体だれが天国に入ることが出来るのであろうかと疑ってしまうのである。
そういうパウロは律法を守り通すことによって天国への確信を持っていたのかというと、そうではなかった。
確かに律法は守ってはいるが、心はみじめであったのだ。彼はその心の状態を恥も外聞もなくローマ七章で語る。
律法を守るという行為で得るものは罪の意識だけであった。みだらな思い、行為から来る誇り、裁きの心、
それらがパウロを悩ませ続けていた。
そこで主イエスは天国への道を語る。ヘブル語で書かれた律法は一点一画の組み合わせから成っている。
たとえそれらの小さな字画からなる戒めの一つを守れないとしても、天国では小さい者と呼ばれはするが、
それでも天国に入っている。ましてやそれを行い、教える者は天国で大いなる者と呼ばれる。
いずれにしても天国に入る道が到来したのだと言うのだ。律法を成就する事が出来るお方の到来によって、
天国への道が開けたというのだ
創世記十五章で、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」とある。
すでにモーセに律法が与えられる六百年も前からアブラハムは信仰によって天国へ入ったと父なる神が
言われているのである。ではアブラハムは誰を信じたのかというと、二千年後のイエス・キリストであった。
主ご自身が、「あなたがたの父アブラハムは、わたしのこの日を見ようとして楽しんでいた。
そしてそれを見て喜んだ」(ヨハネ八章)とあるからだ。
そうなのだ、主イエスを信じることによって天国に入る道がすでに人類の歴史の始まる時から備えられて
いたのだ。小さな罪、大きな罪、毎日そのような罪を犯さずにはいられない者ではあるが、でも主イエスの義、
つまり十字架の犠牲のゆえに、人の行為にまさる神の義をもたらして下さったのだ。
それによって父なる神が天国への道をイエスの義のゆえに開いたのだった。