「ラーゲリ」

 以前、中村彰彦という人の書いた「二つの山河」という本があったが、
それを昨今、ビデオで見る機会があり、ぜひそれを書き綴りたいと願った訳だ。

 一九一四年、日本は同盟国イギリスの要請に応えて、ドイツ帝国に対して宣戦を布告、
中国のドイツ租借地である青島攻略をめざした。ドイツ軍よりも多くの負傷兵を出しながら、
日本軍は七日間にわたる攻防によって青島を陥落させる。それによって五千名近い捕虜を
日本全国十二ヶ所の俘虜収容所に入れなくてはならなかった。だが、多くの収容所では
ドイツ人俘虜を苦しめた。ところが徳島の収容所は俘虜と当局の間には協調の気風が見えていた。
その所長は陸軍中佐・松江豊寿(とよひさ)といった。彼は警備兵にいかなる暴行も許さず、
人道的に扱うように求めた。「彼らも祖国のために戦ったのだから」というのが、松江の口癖であった。

それに彼はドイツ人俘虜の中には、学者、技術者が少なくないから、彼らの持つ知識や技術を多いに
取り入れるべきだと考えたのだった。それによって近隣の町々では彼らの存在が認められ、
地元に溶け込んでゆく。後に収容所は三ヶ所が統合され、その新しい収容所は「坂東俘虜収容所」
と呼ばれ、松江はそこの所長に任ぜられ大佐に昇進した。徳島での五倍の人容となった坂東でも、
松江はドイツ兵に快適な生活を提供するために腐心する。

彼らドイツ兵によってドイツ菓子クーヘンやドイツ・パンが初めて日本に知られる。
さらには「俘虜作品展」までが徳島市内で開催されることになり、積極的に地元民との交流が推進されてゆく。
特にオーケストラによる演奏があり、ベートーベンの「第九交響曲」は本邦初公演となった。
ドイツ兵をして、「バンドーにこそは、国境を越えた人間同士の真の友愛の灯がともっていたのでした。
世界のどこにバンドーのようなラーゲリが存在したでしょうか。世界のどこにマツエ大佐のような
ラーゲリ・コマンダーがいたでしょうか」と言わせた。松江はやはり、不世出の軍人であった。
模範収容所が地上に存在したのは、二年十ヶ月であった。

 主イエスは、罪に捕らわれている私たちを慰め励ますために、
「慰めよ、わが民を慰めよ。ねんごろにエルサレムに語り、これに呼ばわれ、その服役は終わり」
(イザヤ四〇章)と言って、自分の民に語るのだった。
もう救い主が来られた以上、収容所からは解放される時がやってきたのだ。
誰も出ることの出来なかった罪というラーゲリから解放し、天の御国に凱旋するために。