「天から来る喜び」

僕は預言者の中ではエレミヤが一番好きである。
その理由というのは、率直に自分の心の痛みを叫びながら、ひた向きに語り続ける真実なところだ。

さて、エレミヤは同族のイスラエルに、敵であるバビロンの軍門に下れと勧める。
それは敵に降参せよという意味だ。でもいったい誰がそれを良しとしよう。
全能の神を信じているイスラエルが、どうして敵に下らなければならないのか。
それが、どうしても人々には受け入れられないのだ。実際に彼らは、
「神殿だ、神殿だ、神殿だ」(七章)と神に信頼しているように叫ぶ。でも、その中身たるや、
外見だけでイスラエルの神に信頼しようというのではなかった。

実際、過去においてもアッシリヤの大軍が攻めて来ると、神ではなくエジプトに頼ろうとしたではないか
(イザヤ三一章)。
人々はいかんせん聞く耳を持ってはいない。それが理由でエレミヤは民の怒りを買い、
エジプトに連れて行かれて、そこで死んだと言われている。

でも、なぜエレミヤはバビロンの軍門に下れと言っているのかと言うと、イスラエルの
本当の希望を知っていたからであった。それは彼が、「新しい契約」と言って、
救い主イエスの十字架を見ていたからである。単なる七〇年後のバビロンからの解放ではなく、
罪からの永遠の解放のために、神の軍門に下れと叫びたかったのだ。
三一章には、「もはやその罪を思わない」とあるように、それがイエスによってもたらされる
福音であり、イスラエルの希望であったからだ。それはまた全世界の希望でもあるたからだ。

パウロはシラスと共に、ピリピの獄で、「神に祈り、賛美を歌い続けた」
(使徒行伝十六章)とある。
彼らは何度も鞭打たれ、足かせをしっかと掛けられていた。そんな中でいったい神に賛美ができるものかと
思うのだが、でも福音を伝えるというのは、それは喜び以外の何物でもないのだ。
主が共に居られるからだ。それは賛美をし続けなければならないほどに、魂が喜び踊ることなのだ。
マタイでは、「喜び、喜べ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい」(五章)とあるが、
迫害があっても伝道することによって、神から受ける報いというのは、喜びが二回繰り返えされるほどに
大きいというのだ。それがどれほど大きいのかと言うと、ポルスというギリシャ語だが、
大水と訳される言葉だ。天の報いは大水のように押し寄せるほどだというのだ。

果たしてあなたは、そのような喜びを経験しているだろうか。