「憐れみ」
もう三十年も昔の事だが、昨日のように覚えている事がある。サンノゼでの学生時代に献身するために
東京聖書学院に入学するための準備をしている直前、アメリカ大陸横断旅行をしたことがあった。
僕は二回大陸を横断している。いずれもグレイ・ハウンド・バスであるが、一番前の見晴らしの良い所に
座って景色を見、そして写真を撮ったりしたものである。二回目の時、サンノゼからスタートし、
太平洋岸を北上しカナダのヴァンクーヴァーに上り、そこからカナディアン・ロッキーを通り、
オタワに行き、そこから南に下り、シカゴ経由で帰ってきたのだったが、十日間の旅であった。
実はカナダからアメリカに入る時に両替しないで、カナダ・ドルで入ってきた。米ドルはほとんど
持ち合わせが無い。アメリカに入っても、残り少ないカナダ・ドルなので、換えなくても良いと
思ったわけだ。ところが、ワイオミングのシャイアンという町で、バス・デポーに居たところ、
あまりの空腹のために食事をしたくなった。そこで隣接のレストランに入って食事をオーダーして
キャッシャーに来た時であった。私はカナダ・ドルを出したのだった。そうしたら、係りの女性が
「それは受け取れないから、バスの切符売場で米ドルに換金してきて下さい」という。
もちろんそうしたのだが、そこでは換金できないと言う。僕はほとほと困ってしまったが、
やむなくその旨を係りの人に言ったのだった。そうしたところ何と彼女は、「それじゃあ、
私が払ってあげましょう」と言って、その分を払ってくれたのである。それは何と美味しい
ランチであったことか! 食べ終わってそのまま帰るのは、日本人男性の名おれだと思い、
カナダで買ってきたお土産を彼女に差し上げてきた。見ず知らずの外国人に、
よくもまあ好意を示してくれたものである。
その若い女性は憐れみ豊かであった。その行為は恐らく、生涯忘れられないであろう。
憐れみをかけるというのは、その人にとっては犠牲を払うことであり、自腹を切ることだが、
でもよだれを垂らしているアジア人の旅人を見た時に、何とかしなければと思ったのであろう。
山上の垂訓に、「あわれみ深い人たちは、さいわいである。彼らはあわれみを受けるであろう」
(マタイ五章)
とあるが、憐れみをかけてくれたその女性は、きっと豊かな神の憐れみを受けたに違いない。
それは憐れみこそ、それを施すことによって豊かな祝福となって自分のところに返って来るからである。