「まず神の国と神の義を求めよ」

 今年のオレンジ郡教会に与えられたみ言葉は、表題の通りである。これは

元旦礼拝で語られたものであるが、かいつまんでご紹介しよう。

 私たちは何につけても思い煩う・・何を食べるか、何を飲むか、何を着るかということなどについて・・
山上の垂訓と言われる主イエスの最初のメッセージには、そんな私たちに、思い煩うなという戒めが
七回も記されている。

 主は言われる、「空の鳥を見よ」と。刈ることも、倉に取り入れることもしないが、天の父は養って
いて下さる。 ましてや人間は彼らよりもさらに優れているではないか。そんな私たちが思い煩ったから
と言って、自分の寿命をわずかでも延ばすことができるのかというと、一秒たりとも出来やしない。
それよりもまず神を求めよ。つまり、神のみ心を求めなさいと言うのである。

 続いて主イエスは言われる、「野の花を見よ」と。彼らは働くことも紡ぎもしない。でも栄華を極めた
イスラエルのソロモン王でさえ、野の花一つほどにも着飾ってはいなかった。どんなに人がぜいを尽くして
自らを飾りたてても、野の一輪の花の美しさにも及ばないというのである。

 わが家の庭には月下美人が咲く。年に二度は咲く。それは夜のほんの数時間だけなのだが、
その数時間のために一年の大半をじっと耐えて待つのである。しかもその花弁のデリケートなこと、
とても言葉では名状できやしない。

 かつて広島ノートルダム清心女子大の理事長をしていた渡辺和子氏は次のように言う、
「一人一人が花だ。小さい花、大きい花、早咲き、遅咲き、店頭に飾られる花、ひっそりと
路傍に咲く花など、じつに様々な種類がある。しかし、どこに咲こうと花の使命は咲くことにある。
自分にしか咲かせられない花を一番美しく咲かすことにある」と。

 一体、私たちは七〇〜百年という人生の中で、どんな花を咲かすというのであろうか。
実際、私たちが咲かすものと言えば、プライド、富、権威という虚栄ではないだろうか。
それらは美しさとはほど遠い。それよりもむしろ神を賛美する言の葉で自らを飾りたいものである。
それが神の国と神の義を求める(マタイ五章)という意味であろう。その時に、私たちは美しい人生の
花を咲かすことが出来るというものである。人に見られようと、見られまいと、天の神に向かって人知れず
咲く花こそ、最も美しい人生の花と言える。この年、一体あなたはどんな花を咲かせてくれるのだろうか。